Akira's Diary

Wednesday, April 19, 2006

廢物變黃金

婆婆驟逝後,公公為了找婆婆生前的存摺和印鑑,著實費了一番工夫,甚至執筊杯祈求婆婆在天之靈能助一臂之力,後來多虧公婆眼中有敗家之虞的大哥,憑著長年累積下來的"經驗",才使得婆婆半生的積蓄,免於冰封在銀行金庫裡的命運。大嫂為此調侃大哥:「全家就你最神通廣大,所有值錢的東西問你最知道!」
不過,大哥的"道行"雖高,還是無法翻出婆婆的如來佛掌心,因為有兩塊金條至今下落不明,公公說,婆婆生前曾得意的笑著說:「我藏的,你怎麼可能找得到」果然,一語成讖。
去年9月,日本琦玉縣發生一件"從天而降"的竊案。兩名資源回收公司的員工和一名廢棄物回收業者,在折解廢家電時,發現2200萬日圓的現鈔。三人想必經過一番討論和爭扎吧,最後決定就地分贜,各自將錢帶回家,但在二十天後,三人又協議各自到住家附近的警察局自首,大概得到這筆為數不小的意外之財後,三人都日日難以安眠吧。
有一就有二,有二就有三,據說光是琦玉縣,從去年10月到現在,類似的案例還有三起:在郵筒中發現內裝100萬現金的信封、在廢棄物處理場發現3100萬現金,以及在私人土地內發現2100萬現金。現在,這些巨款都成無主失物,最後會流落何方,實在令人好奇。
看來,今後公公可得愛物惜物,不要輕易汰舊換新,即使要扔要換,也得仔細檢查才是。

頑張れ!

「用同樣的方法,想得到不一樣的結果」這種人叫笨蛋!依此,我好像離笨蛋不遠哦……
上星期六的課,讓我有點小小的挫敗感。平常”看起來”不太交作業的同學,竟都交出自己的創作,有幾位還滿多產的,一口氣交了好幾篇。
邊聽老師朗讀大家的作品,我竟羞於交出自己那首沒有詩意的”小詩”,謊稱寫不出來,事實上也差不多啦,結果第二堂課就聽到老師那句某人的名言──想用同樣的方法得到不一樣結果的人是笨蛋。想想,彷彿就是自己的寫照。年近四十,卻老在繞圈圈,而且還可能是同樣的圈圈,愈想愈沮喪……
もうやめて!落ち込むのはやめて!自分が自分を励まさなきゃ。得仿效日本人的精神,對自己大喊:頑張れ!頑張れ!

Thursday, April 13, 2006

フェアについて

世の中に
フェアなんてのことは あるか

自分の信念を見つけて
自分を信じて
そして とことんやれば
フェアなのかアンフェアなのか
どうでもいいと思う

這世界上
有所謂的公平嗎?

找到自己的真理
相信自己
並貫徹執行
公平不公平
都無所謂


所謂狗急跳牆,這禮拜的功課有一樣是創作,老師要我們一定要寫一些東西。從小到大都是乖學生的我,當然不會不交作業,但創作除了文采還需要靈感啊,文采不怎麼樣又不受靈感眷顧的我,只好硬擠出這首"小詩"。老實說,這是我昨天K完一部日劇的"成果",就這樣交差了事吧。

Monday, April 10, 2006

翻譯宿題──丘の上の父

老師給我們的作業都是一些小品,簡單易懂,但在文字轉換間,還是有些字句需要再三琢磨推敲。老實說,我還滿喜歡那個在心裡推敲琢磨的過程耶。


丘の上の父            /長谷川光二
母は早い時期に亡くなった。私が中学校二年生であった。兄妹の中でわりと、年長であった私は、母親代わりもやらされた。大学を出て、東京の企業に就職した。母親のいない田舎の家には帰ることも少なかった。何年ぶりかで正月に田舎に帰った。明治生まれの父は懐かしそうでもなく、“おうっ、帰ったか”という態度だったが、末の妹が笑って“男同士っておかしいのね。お父ちゃんも帰るまでは、後、何日帰ってくるって大騒ぎしてたのに、顔を見ると、知らん顔だもんね“と言った。
明治生まれの父は、他人への思いやりを態度で示せる人ではなかった。人に親切にされても“有難う”とか“済まないね”とかが、素直に言えない人だった。まして、子供に“よく帰ったね”とか“元気にしてたか”とか言える人ではなかった。
正月休みはあっという間に終わり、東京に帰る日になった。帰るときも、私の“じゃあ、帰るからね”という挨拶に、父は、“うん”と頷いただけだった。
帰京の汽車が十分くらい東京に向かって走ったあたりが田舎の家だった。小高い丘の後ろに家はあった。汽車の窓から、“あの辺りがそうだな。”と思って見ていた私は、はっとした。丘の上に、汽車に向かった大きく手を振っている老人の姿があった。
父であった。父が私に手を振っているのだ。“丘の上で手を振るからね”と言ったわけではない。窓から、私が見ていなければ、まったく無駄なことであった。おそらく父は私が気付くかないかは、どうでもよかったのだろう、私の乗っている汽車に手を振ることで、別離を惜しむ気持ちを表現したかっただけなのだろう。他人には、“なんだ。つまらない”としか思えない話かもしれない。しかし、私には、今でも心に残っている取って置きの話である。
頑固で一人よがりの父は私には反面教師だった。“父のように生きたくない”、そう思って育った。でも、この気付かぬかもしれない我が子に手を振る父の姿は、私の父への反発がお釈迦様の手のひらの中での反発でしかなかったことを思い知らせた。その父ももう亡くなり、七回忌も過ぎた。誰にも話さずとっておいた“私の心に残るとっておきの話”である。


山丘上的父親
母親很早就過世,在我就讀國中二年級的時候。因此兄弟姊妹中較為年長的我,便常須兄代母職。大學畢業後,我任職於東京的企業,很少再回去那個母親已不在的鄉下老家。就這樣不知過了多少年,有一年正月,我回老家過年。明治時代出生的父親看到我並沒有表現出很思念的樣子,而是像說「哦,回來啦」那樣淡漠的態度,倒是小妹笑著說:「男人家真是奇怪耶!直到回來前,老爸還吵著問還有幾天才回來啊?結果一見到面,反而一副無所謂的樣子。」
出生於明治時代的父親,是不會將對別人的關心表現出來的人。即使受到別人親切的對待,也無法坦率說出「謝謝」、「不好意思」之類的話,更何況是對孩子說「回來就好」、「過得好不好啊」這樣的話了。
轉眼間年假結束,到了要回東京的日子。臨走前我向父親道別,說「那麼,我走了」,父親聽到也僅是點點頭「嗯」的回應一聲而已。
開往東京的火車大約奔馳十分鐘之後即是一片田園景色。老家就在高高隆起的小山丘後面。我從車窗往外看,正心想:「大概就是那一帶吧」,眼前的景象卻令我失聲叫了出來──山丘上有個老人的身影,正朝著列車奮力的揮著雙手。
是父親!是父親在對我揮手!他並沒有告訴我他會在山丘上揮手。所以如果我沒有望向車窗外的話,他的所作所為便完全沒有意義。恐怕,不論我是否注意到,父親都覺得無所謂,他只是想藉此表達不捨離別的心情吧。對於別人,或許只會覺得這故事「什麼嘛!無聊!」但對於我,卻是至今留存在我心裡珍貴的記憶。
擇善固執的父親,對我而言是個負面教材,在成長過程中,我一直抱著「不想活得像父親那樣」的想法。不過,看見那個對著可能完全沒注意到的兒子揮手的父親身影,讓我深深感覺到自己對父親的反抗,不過是逃不出釋迦牟尼佛手掌心的無謂掙扎罷了。而那樣的父親也已去世,已經過了七年忌*1了。這段往事我不曾向任何人訴說,它是「留存在我心裡珍貴的記憶」。

*1 指死後六年,第七次的忌日。

Friday, April 07, 2006

隨便亂記

最近其實有很多事情值得記錄,兒子會自己洗內褲啊襪子啦,兒子終於可以自己定鬧鐘起床啦,去綠博校外教學的事啦,和黛瑩全家去走松蘿步道,發現原來兒子還沒有失去在自然遊戲的能力啦,還有據說是宜蘭特有的排毒聖品蕗蕎啦季節美食桑椹啦等等,就容我在這裡一筆帶過,意思意思一下就好。實在是因為這星期"日也操,冥也操",白天支援學校校外教學、陪兒子玩,晚上明明很累還是捨不得睡,一定要看幾集最新到手的日劇不可,所以積了一些翻譯作業沒做…‥,現在得趕作業去咯!